さすがに半年経つと週休一日にも慣れたな…
そもそも俺が小学校の頃は日曜しか休みじゃなかったし。

子供の頃、死という意味を考えたら、ものすごく怖くなって嫌だった思い出がある。結構そういう人はいるんじゃないか?

自分が死ぬより、親が死ぬという事実がとても悲しかった。

無論今でも嫌だ。想像するだけで現実になりそうで怖い。死について考えてるとき人はどんな脳波がでているんだろう・・・

成長すると、俺が生きることに意味はあるのか…ゴミを出し、環境を汚し、世の中にとって害でしかないんじゃないのか、とも考えるようになった。生産的なことは何一つやっていない、たとえ生産してもそれははたして有益なのか?

しかし結局は若造の考えることだったな。そんなことを考えてる暇があったら、実力をつければいいだけの話だった。要は逃げてただけなのかもしれない。

そういえば、自分という存在、オリジナルなんてあるのか?といったら非難轟々だったな。
でも結局大抵の人は親、本、テレビといった既存の意見をとりいれ、それをさも自分の意見のようにいってるだけじゃないか?実際のところ皆と何かに話し合うとき、俺はこう思うじゃなくて、こういう風に〜の本に書いてあった、じゃないのか?

その知識から考えて選んでいるから自分の意見だという批判もあった。しかしその選ぶ思考回路事態が既に外部の影響を受けているのでは。

しかし、自然と入ってくる知識だけは自分で選ぶことはできないだろう。つまり人間の思考法は偶然の産物ということなのか?

ともするとオリジナルということでいいのかもしれない。少しでも知識が違えば他とは違うようになるはず。ミクロはマクロに多大な影響を与えるものだ。

[教習報告]
方向転換、縦列駐車をやった。どうなんだ、おれ。三時間実技は疲れるな。

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